となりのビル工事の騒音のあまりの凄まじさに中断した『エイリアン』(1979年)、これの前日譚ともいわれてる『プロメテウス』(2012年)DVD、きょう、つづきから最後まで見終えた。一度見ているはずなのに、2度目の視聴では、より深部まで理解、かつ堪能でき、あらためての良作であること確認。ほとんど全裸、否、胸と腰に一刷毛の布をまとってるのだが、イメージとしては裸にしか見えず、そんなヒロインが自分の体内に巣くうエイリアンを「セルフ手術」で掴み出すメディカルな衝撃。シガニー・ウィーバーじゃないよ。シガニーじゃ醒めるけど(ゴメン!)、ノオミ・ラバスという人のリアルエロには、オレのSM創作熱も烈しく喚起された! マジ!
これの続編ともいわれている『エイリアン:コヴェナント』(2017年)が欲しくなり、うっかり注文するところだった(笑)。
抑えて抑えて! 今月何か注文したばかりだからな(痛)。
それにしても、この懐かしさはなんなんだ。「デジャブ」というのか、この既視感は。いつかきた道、まえにも見たような、この気持ちは二、三の別作品の似たような場面だ。それが映画ではなく『鉄腕アトム』だったりする。『鉄人28号』にもあったとすればロボットの反乱だ。すると、あんなに醜く、凶暴な化け物エイリアンにも、そこはかとない哀しさ、愛おしさまで感じるではないか。それというのも『エイリアン3』(1992年)のラスト、溶鉱炉に落ち行くリプリーの体内から吐き出された幼体エイリアン、それを抱きしめて滅びんとする母心のように。
あの映画が公開された当時、というかその時代は『ターミネーター』にもいえたが、(いま、ど忘れして、思い出すのに「巨大船が裏返し」と検索してヒットした)(笑)『ポセイドンアドベンチャー』をはじめとして、「犠牲的精神」が尊ばれた傾向というのもあったよな。いまとなっては懐かしいくらいのものだよ。