手塚漫画が表現の自由をめぐって、障害者団体などの抗議を受けたのは1977年のことだった。ここでは単に「表現の自由」と書いたが、この場合の表現の「自由」は、その後延々とつづくことになる、特にはテレビをはじめとする放送界における「不自由」の一里塚となった。
きっかけとなった「事件」を、問題とされた手塚漫画の内容紹介と共に判りやすく解説してくれてるサイトをリンクする。
リンク1
[SOUR SHERBET]から「ロボトミー」
じつは放送界、映画界では、これ以前の1970年ごろより、住井すゑ原作、今井正監督『橋のない川』を差別映画と断定し、糾弾する、関西を拠点とする部落解放同盟による上映阻止闘争がつづけられていた。これについても貴重な研究書がでているので、差別問題の全体像をみるうえでも格好な資料として、合わせてリンクしておく。
リンク2
「『橋のない川』上映阻止は正しかったか」
しかしマスコミもマス・メディアも逃げに徹し、この流れは支流に奔り、いつしか言葉尻だけを云々して本質を見失うような些末な論議に発展していく。その途中、途中に「放送事故」のような失言、暴言問題なども派生し、こんどは「寄らば大樹」「さわらぬ神に祟りなし」的流れとなり、問題意識をともなった良質の番組やドラマがますます消えていく結果にもなった。
リンク3
月刊「障問」の時代
差別語事件簿
この流れのなかに手塚さんも含まれたのだが、じつは障問(月刊障害者問題略称)には「有名人路線」というのもあって、俺のミーハー精神から「障害者問題に(すこしでも)関わりを持った」芸能人、著述家などに「突撃取材」を敢行するという無謀行為(笑)に何度かチャレンジした。
創刊の1976年5月から芝居を演じた1978年10月までの30号分、公演会場の受付に置いて3000円で売る合本販売をしたが、その表紙の右端は7人の侍ならぬ特集ゲスト7人をならべた。
順不同でうえから、東海テレビで障害者ドラマの障害者役、森田あけみ/のちには『はだしのゲン』だが、この当時は障害者映画『春男の翔んだ空』プロデューサー、山田典吾/ご存じ『座頭市』役者、本家ホンモノ勝新太郎/のちに『車輪の一歩』脚本家の山田太一/車イスの国会議員・矢代英太/漫画の神様、手塚治虫/日本安楽死協会をつくった太田典礼、まで。
「月刊障害者問題」が手塚治虫さんを特集したのは、1977年12月15日発行の第20号紙面だった。
リンク・
月刊“障問”の時代(1977)
手塚治虫はなぜ障害者を描かなくなったか
漫画の“神様”を直撃インタビュー
最後に一言——
『忠治』でいろいろ理屈こいてるが、要は、
「テレビのなかではっきり《メクラ》《カタワ》が口に出したかっただけ」これに尽きる!