照れ臭いが、時代の雰囲気を伝えたいがため、あえて40年まえのあした5月15日、朝日新聞東京版にでた記事をコピーする。掲載写真は自宅三畳間で、創刊ほやほやのミニコミ新聞「障問」を広げてる本間。だが……
勤めた印刷会社の、同僚との「酒の場の事故」で前歯が欠けている(恥)!
以下、記事全文——
身障青年が
月刊新聞発行
体の不自由な青年が、車いすを押して取材に駆け回り、自分たちが直面している問題を、ペンでえぐった「月刊・障害者問題」を発刊した。台東区三筋一ノ一六の一六、美すじ荘内、印刷会社勤務本間康二さん(二四)。編集から販売まで、がんばる本間さんを、身障者仲間や地元のボランティアがバックアップし、オフセット印刷、タブロイド判、四ページで百円のこの新聞は、順調な売れ行きをみせている。
差別の現実訴え
台東の本間さん
三畳しかない本間さんの部屋が「月刊・障害者問題」の編集部だ。机の上に電話が二台と、スクラップの山、土間には車いすが。本間さんは、十五日に創刊されたばかりの新聞をながめながら「われながら、ほとんど一人でよく新聞が出せたもんだ、と思いますよ。既成のマスコミに頼らない障害者のメディアをつくりたくて、意地になってがんばりました」と語った。
新潟県佐渡島の出身、一歳半で小児マヒにかかった。地元の養護学校を出て、上京、新宿区戸山町の国立身体障害センターでタイプを習った。「いままで、職場を五、六回変わりましたよ。二階に仕事部屋があるところは、車いすで上がれないため、長続きしなくてダメ。収入がいいというので、テレビの台本のガリ版切りをしたこともありますが、夜の仕事が多く、つらくてやめました。民間の重度授産施設に入ってみると、給料が五千円だった」
差別の壁を痛感した本間さんは、身障者の生活権拡大の運動に飛び込み、四十八年には小田急電鉄に対し「車いすでも、電車に乗せろ」と要求するデモの先頭に立った。
車いすで取材・販売
ボランティア後押し
「こうした運動にかかわるうちに、障害者自身が自分たちの問題を全般的にとらえる新聞を出さなければいけない、と思うようになったのです。いろいろな団体の機関紙はあっても、総合的な場がないと、まとまりにくいのじゃないかという疑問がわいてきたのです」。本間さんが「月刊・障害者問題」を創刊した動機だった。
昨年暮れから、準備にかかった。予算は、給料や貯金をかき集めた約五万円。会社の仲間たちが手伝ってくれた。苦労したのは取材だ。車いすで、カメラをぶら下げ、テープレコーダーをかかえた本間さんは、駅の長い階段を登り降りするのに、駅員の手を借りなければならなかった。
こうした苦労を積み重ねて、でき上がった創刊号の内容は——。
一面で、先月初め、錦糸町駅前の歩道橋に付けられたエスカレーターのルポ。「この地上はだれのもの!!」と、車優先の社会にメスを入れた。
二.三面で特集「地域化する障害者運動」。市川市や八王子市の団体からは、レポートが寄せられ、世田谷区や地元の台東区は取材して歩いた。四面では、本間さんがこれまでの苦しい人生を「もうひとつの青春」として、随筆風につづった。漫画やカットは友人で、やはり重度障害者の八王子市の今岡秀蔵さん(二五)が寄稿してくれた。
身障者の仲間が、五部、十部と売りさばいてくれる。日曜日には、台東区の「松が谷ボランティアの集い」のメンバーが、本間さんと一緒に、新宿や歩行者天国に立って販売を手伝ってくれている。千五百部刷ったが、もう半分以上売れた。
本間さんは「これからは部数もふやして、障害者の発言権をましていきたい。当面は、施設や在宅の身障者の問題に取り組むが、いずれは老人など弱者の問題にまで幅を広げていきたい」と、抱負を語っている。
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「月刊・障害者問題」編集部の電話(以下着)(画像はテレビ画面から)