画像だけのつもりが第一巻まで買ってしまったのはウィキペディア曰く『時間の習俗』が、「『点と線』の三原警部補と鳥飼刑事が再び探偵役となり、犯人が仕組んだアリバイに挑戦」とあったからだ。
俺が買いそろえた文藝春秋社刊松本清張全集が、いよいよ(全66巻中)40巻の大台に乗ろうとしている(嬉)! もちろん「並べ読(ならべとく)」ではないから、それぞれ2回以上は読んでる勘定になる。なかには『球形の荒野』や『ゼロの焦点』のような、3回読みもある。
何度読んでも清張はいい。たとえていえば他の著作を何十冊読むより、清張作品をくり返し読むほうがずっと有意義だし、清張空間に浸ることのほうが楽しい。俺のなかでは松本清張は、すでに「神の領域」に達している。
そのなかで最近、『砂の器』を読んだ。「また読んだ?」、というイメージが強いのも映画の「悪影響」だ。あえていおう。悪影響だ。「映画は原作を超えた」といわれるが、とんでもない! 映画はラスト、丹波哲郎が捜査会議の席上、今西刑事となって事件の解明を語る背景として、らい患者となった父・本浦千代吉が息子と日本列島津々浦々、遍路乞食して歩く姿が四季折々のなか描かれ観客の感涙をしぼるが、原作もまた捜査会議の場面はかなりの紙幅をつかって描かれる。
しかし、俺のなかでは映画版での丹波哲郎(今西刑事)も加藤剛(和賀英良)も出てこず、イメージとしての今西刑事は『点と線』の鳥飼刑事だ。そして和賀英良は自身の出世や栄光のためには、恩師であれ恋人であれ非情の牙を剥いて殺める冷血漢だ。映画では原作と違って役柄の変更、入れ替えが加えられてるが、邪魔になって女を殺す手口は鬼畜の所業だ。おなじ清張作品に緒形拳で映画化もされた『鬼畜』という作品もあるが、そこでの「鬼畜」より和賀はなお鬼畜だ。前衛音楽の気鋭かなにか知らないが、それが人間・今西刑事の生活ぶり、人柄との対をなす。
映画ばかりもてはやすのでなく原作『砂の器』はもっと注目されてよい。かならず読んでおくべき清張作品のひとつだ。
(註:すぐ上の画像は我が家の本ラック。最上段に乱歩全集全15巻を横並びに、その下一段に清張全集を二巻重ねた状態で「ずらーっ」と並べ、最下段に残りの清張全集を並べたもの。画像は似たようなものをネットから拾ったもので、実際は、乱歩全集15巻の下は清張が16巻並べられる)