きょう6月16日は、51年まえ、新潟地震に見舞われた日である。曜日もおなじ火曜日ということで書き留めておく気になった。
1964年は、四カ月後に東京オリンピックを控えており、そんな年に新潟では国体もあって、国体終了と同時くらいに迎えた震災で新築なった体育館も競技場も、地震により壊滅的被害をこうむったのではなかったかな。「新築なった」は我が母校、新潟養護学校もおなじで、6月に開校した学校も寄宿舎も泥海に水没して、さながら大地にのたうつ蛇のような残骸をさらしていた。
子供というものはおめでたいものだ。
大人は「避難だ」、「安全な場所を」とあくせくするなか、疎開荷物を満載して通るトラックなどをみて、思いもかけない非日常のリアクションに喚声をあげて沸き立っていたりもしてたのだ。
その点、俺なんかは公僕心、公徳心の塊みたいな性格だったから(ほんとかよ!)(笑)、終始深刻な顔つきで明日の身に思い悩んでいたものだった、多分(?)。
まあ、しかし、松葉杖ついて歩いてたとはいっても、松葉杖によりかかって立って、やっと腰を振って補装具の足を二足、また二足と一足跳び歩行する「ぴょこたん歩き」だから、俺より早い奴はいくらでもいた。
「ウンコ垂れ」は養護学校のまえのはまぐみ学園にいた、小学部低学年時ほどではなかったものの、トイレ行きを油断して恥ずかしいことにならぬよう注意した。そんな時期の新潟地震であった。
地震は思わぬ郷里帰省の好機を得た。
校舎は応急処置で修復、県立盲学校寄宿舎の一部を借りて仮寄宿舎とし、新潟交通のバスで朝夕通学する毎日がはじまり、みんなはそれに復して寮生活にもどったが、俺は夏休みが終わるまで佐渡の実家にいた。
新潟地震は俺の貴重な体験だった。
そして長く新潟地震の体験は俺の自慢話だったが、ある時からそれはなくなった。死者6000何百人という阪神淡路大震災が1995年に起きたからだ。人の命を数で量るのは良くないが、しかし新潟地震の時の死者は26人だからなあ。
いや、そういっては良くないことは判るんだが、経験上よく振り返ってもみるんだが、あれだけの規模の災害で死者26人というのは奇跡的といってもいいのかとさえ思った。液状化でどろどろの大地に、建物の倒壊はハンパなかったもんな。
見方を変えれば、液状化でゆるやかに倒れたため、圧死者がすくなかったのか。
ともあれ凄い経験だった。
まず、これで一生分経験したと、あの時は思ったものだ。
それが「3・11」だもんな(笑)。
いや、もちろん福島の人々からしたら赤ん坊と大人くらいの違いかも知れません。しかし、あの揺れも忘れもしません。というか、新潟地震は松葉杖を使っていた時で、「あっ」という間に揺さぶられ倒され、あとの記憶があいまいなんですよ。
しかし「3・11」の揺れはもの凄いものだったと、はっきり脳裡に刻みつけておきました。「揺さぶられる」という形容がぴったりの、あの、何度もテレビの映像で見た「阪神淡路」のと瓜二つでしたからね。
そういうわけで書きました。m(_ _)m