きょう5月17日は、タイトルにしたブログが生まれた日である。ただし「迂闊にも」と冠して、「結果的に」「知らされることになった」という文言をも付け加えて正直な事実となる、正に迂闊!
Mikikoさんには謝ります。m(_ _)m
思えば5月という月は、俺にとっても忘れることができない月でした。
●七周年リンク●●長編レズビアン小説
「由美と美弥子」連載 Mikiko's Room
さて、Mikikoさんとはここで別れて、ここからはいつもどおりのホンマタイムスにさせてください。
ほんとうは2月の寒い日に就職が決まって、それからアパート探しをし、3月末という最期の最期——つまり職能訓練施設の卒業が3月だったが、車イスの身では障害者への偏見、風当たりから貸すほうにも限られた現実、「貸し渋り」という実態があったからだが、結果的には見つけた。
それがちょうど40年まえの昭和50年(昭和の50年は1975年、今年2015年から1975を引くと40年!)で、それだけなら5月が出てくるいわれはないのたが、ひとり暮らしのアパート生活、その間、国技館の蔵前もある三筋町から秋葉原の印刷会社に、とことこと車イスを漕いで(タイヤに付いたアームを掴んで回して)片道40分を朝晩通勤してた。最初の一年の蓄積がベースになって、「車イス頑張る!」「車イス編集長、東に西に!」と書いて、月刊障害者問題なるタブロイド紙(B4)4ページのミニコミ新聞を出すことになった。それが5月!
薫風。5月の風と共に15日創刊!
これは朝日新聞に載った。残念ながら都内版に限られたが、「さすが朝日!」と思ったのは、そのあとだ!(爆) 電話が引きも切らずといったらおおげさに聞こえるが、いや、それくらいつづけて鳴ったのだ。定期購読は最終的に500人になり、彼女もできた!(笑) これがねえー、最終的にはつづかず、他人の女房になってしまったが(泣)。いやいや、それほどではないよ。とはいえ、お粗末だね(笑)。ただ、お陰で俺の「男」も知ったのだから、五分と五分でちょうど。ま、いいか!(笑)
まえにもリンクしたが、いまならそれこそ「満を持して」という形容がぴったりくるだろうから(笑)、NHKで放送された番組(教育じゃないぞ! 綜合の朝の番組だぞ! と声を大に)(笑)のテープ起こし全文をリンクする。
●リンク●●再現、
NHK「奥さん ごいっしょに」
ちょっと説明を要する。
画像は静止画の一部だが、〈なるほど、うまく並べてあるな〉と、いまにして思うわけだが、席順は発言させるにつごう良い順なんだな。それが「テープ起こし」を読むことで分かるんだが。
その順でいうと……
「車イスのくらし」のタイトル文字に近い順(発言順)からいくと、画面向かって右端から、アドバイザーでもある力石先生、今岡(故人)、それに隠れて山田富也(放送からしばらくして故人に)、木下(故人)、本間、猪野(彼女も故人に)、横田(故人に)とつづく。
じつは、この顔ぶれ、障害者運動史に照らしてみたら凄いことなんだよ。
俺なんか野次馬は別として——いや、謙遜ではなく、ミニコミ紙をはじめた時から「壮大なる野次馬」を自認していて野次馬けっこうだからだが。
今岡は略称「障害連」=障害者の生活保障を要求する連絡会議、これの立ち上げの時からの功労者だし、山田富也さんも筋ジストロフィー者の団体ありのまま舎を立ち上げた本人だし、木下さんは仙台(車イスの)街づくり運動を東京町田に継承した「街づくり運動の旗手」だし、猪野さんは「障害者の足を《奪い返す》会」という名前(山カッコはホンマ)が示すとおり、妥協を許さない激越精神で邁進した運動家だったし、横田さんもまた青い芝の会で、脳性小児マヒ者が大人になって差別する仕組みに真っ向切って闘ってきた「本陣」たるべき大物。
うーん! こう見てくると、あらためて今は亡き人々の凄さに打たれる。
俺なんかしがないショボブログの書き手でしかないが、さまざまな艱難辛苦を闘ってきた先人の遺志を受け継がねば、一人でも多くの人に語り継がねばと、ふつふつとその緊張感にみなぎる自分を思う次第だ。