『阿弥陀堂だより』を見た。
「悪人が一人もでてこない映画」というと、それだけで偽善的でウソっぽい映画となるだろうが、かんがえてもみてくれ。
自分が悪人になれるだろうか。その自分を全体に広げた世界が「社会」なら……
他人を善人と思うのも、悪人と思うのも自分の心への映りようしだいと思えば、「犯罪映画以外の人間を描いた映画」に悪人がでてなくてもすこしも不思議でもなければ、不自然でもないと思わないか。
ライブで見た時の感想を2002年の日記からコピーする。
『阿弥陀堂だより』を観た。今年の日本映画最大の収穫だろう。ただし、出かける直前に配達された朝日夕刊の山根貞男評を読み、あまりの酷評に、よほど観るのをやめようかとも思った。しかし、人の評論ほど当てにならないのを、今回心底痛感した。それでもなにか納得するものがひとつくらいあるのだが、どこを探しても的外れ、あるいは言いがかりとしか思えない。
売れない作家の寺尾聰がぶらぶらしていようが、人生論をのたまわろうが、それで文句いわれる筋合いはなかろう。男なら女房に食わしてもらわず、土方でもなんでもして働けってか? メッセージが過剰というのも当たらない。あそこに出てくる人たちの言葉なら、もっと聞きたいくらいのものだ。
映画好きの友だちから聞いたべつの批判では、「都会で傷つき、癒されるため田舎に帰ってくるなど甘い」というのもあったそうだが、それは健康者の視点でしかない。どうしてそんな些末な批判でせっかくの日本映画に水をかけるのだろう。
絶品は「91歳北林谷栄」の、演技を超えた演技。じつはこの『阿弥陀堂だより』、樋口可南子を見に行って、北林谷栄で驚いたというのが、思いもかけなかった当たりクジ。これは演技というより山坂峠、幾星霜の演劇人生を超えた果ての枯淡の境地から湧き出る自然体にちがいない。ならば、なお素晴らしい! 彼女が演技するたび、劇場中にほのぼのとした笑いがこぼれ、温かい反応に包まれた。
俺は、こういう経験を過去にもしている。栗原小巻を見に行って田中絹代で驚いた、というのは熊井啓の『サンダカン八番娼館 望郷』。女性史研究家である栗原を迎える、からゆきさん・田中の暖かさと厳しさ。あれも絶品の演技だった。
●共感リンク●●
『阿弥陀堂だより』特別版 アマゾンレビュー
批判もあります。
●関連リンク●●[いくらおにぎり]さん
『〈「阿弥陀堂だより」小泉堯史 2002〉を見ました』
なるほど〈そうだろうなあ〉と思い当たる点もあります。
でも、いいんです。
しょせん映画も娯楽であり、「一時の癒し」でいいではないかと思うのです。病気のことや、専門的には「一里塚」か「きっかけ」にしかなりません。勉強はあとにつづけばいいんです。