この映画への思い入れは強い。
黒澤晩年の作にかかわらず、といっては失礼に過ぎるが、『影武者』(1980年)でも『夢』(1990年)でもなく、『乱』(1985年)ですらない黒澤末端期の文字どおり最高位に到達している感を否めないからだ。
それはなぜか。
黒澤の原爆への、核に対する反対姿勢が明確に示されているからだ。というのも、『生きものの記録』(1955年)は水爆への今日的提起だったが、『夢』のなかの「赤富士」は正に原発への今日的提起だった。
これら反原爆・反原発姿勢をトータルして分かりやすく、面白く、またアメリカ人を巻き込んでワールド・ワイドな視点で描き込んだ反核映画が『八月の狂詩曲(ラプソディー)』(1991年)だといえるのではないか。
その他、自作にからんで黒澤がいってたことばが以下サイトで紹介されている。
●発掘リンク●●[シネマトゥデイ]から
『黒澤明、映画『夢』で原発事故を20年前に糾弾「原発は安全だと!?ぬかしたヤツラは許せない!」と子連れの母親が絶叫するシーンも』
はじめて知った。
正直、驚愕というくらいおどろいてる。
正に原発を直撃してるではないか。こんなことがどんなメディアでいうことができたのか。そもそもは、黒澤という「大物性」が成しえた発言だったのか。
思えば、黒澤映画がテレビで放映されるたび、ほかでは聞くことができない、メディアでは禁じてる「メクラ」「カタワ」の差別語連発が、黒澤映画だから「ノーカット」(ちなみにシネスコ横長画面もノートリミング!)、ということでわくわくした。どきどきしたといえばいいのだろうが、「ほんとに出すのかな」とドキドキしつつ、「わっ、出た!」といってわくわくしたのだ。
差別語を謳歌してるわけではない。
差別語を禁じることで、差別はいけないと無理に思い込ませる手法の愚を笑ってるのである。解同(部落解放を任ずる一派、新左翼のはね上がり)路線の愚を嗤い、かつ怒りをもって断じているのである。
それら泣く子も黙る勢力にも負けず、映画をとおして「あるものはある、情況をそのまま描くことはリアリズムであって差別ではない」としてきた黒澤は、誰よりも「戦う人」「真実の人」だったのではないか。いま、俺はつくづくそう思うのである。