右傾化がいわれてひさしい。
ナチスやSS(ゲシュタポ)は、ネトウヨの大好きなアイテムだろう。ユダヤ人が親衛隊に引っぱられ、強制収容所に送られようとするとき、いったいどれだけのドイツ人が心を痛めたことだろう。身をもってかばった人が皆無に近かったことは歴史が証明するとおりだ。ひるがえって障害者問題に置き換えたとき、たとえば凶暴なネトウヨの兇手から(笑)身体を張って守ってくれる心ある日本人が何人いることだろう。俺は、残念ながら「その時だいじょうぶ」だという楽観は持ち合わせない。
だから、26日に相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた惨劇の「標的」——延長線上には自分もいただろうと確信、事件後の時間経過が増すごとに深く、強く心の痛みと懼れが浸透するばかりである。
10年もまえ、コインランドリーですれ違った少年の視線に、なぜかいい知れぬ「殺意」を感じたことがある。時と場所を違えたら恐らくヤバかったかも知れない。「そんなバカな」「思いすぎだろう」というのはふだんの日常を前提とするからで、日々つづく延々の連続のなかで、行き交う偶然のなかには思いもかけぬ「非日常」が生ずる一瞬があるものだ。あとで思い出してみて「不幸な偶然」となるように。
相模原事件の犯人がいだいたヘイトクライム——障害者は無価値な人間、その者の介助は国費の濫費=国益の損耗——そう考える志向に共感を寄せる声もちらほら出てきたというネットの情報も垣間見えた。
それに対して、俺がもうすこし頭が良ければ、「斬新な費用対効果論」を展開できるのだが、税金を払うのがあくまで健常者である以上、これも「苦しい理想論」だ。
それよりは過去の賢人、知名人に学ぶべきかも知れない。
もう、40年近くもまえ、マンガの「神様」手塚治虫さんに聞いたお話だ。
「南米取材の時、ペルーで人類博物館を見学した。館長の説明によると、古代ペルーではみつ口、目が見えない、耳が聞えない、水頭症などの人が逆に尊敬を受け、一般の人以上の地位を受けている。そして彫像とか、日用品の物の形に使われている。その頃の一般感覚の常識の中では、一般の人にない体を持っている事でスペシャリストだった。そして非常にいい生活をしている。人間が増えすぎ、世界が狭くなり、厳しく冷たく残酷な感情になり、そういう人間関係が生まれなくなった。ところが古代ペルーでは根本的に肉体は肉体、精神は精神という平等の中で、重い軽いの差別はなかった。その一体感に私はショックを受けた」
文明が発展するほど人間は愚かになるものかも知れないね。