ひょんなことから新潟養護学校時代の先生や友だちを呼んで、同窓会をすることになった。その集まりが6月15日に決まった。ちなみに6月16日は、昭和39年(1964年)に起きた新潟地震から49年経った「地震記念日」、つまりは来年が50周年というわけだ。
新潟養護学校の歴史に新潟地震は深く関わる。
その沿革をみると、前身ははるか昭和33年(1958年)、「新潟県立肢体不自由児療育施設はまぐみ学園開園にともない、新潟小学校及び寄居中学校分校として発足」とある。それまでは付属だったのが、独立校舎として現在地海老ヶ瀬に完成したのが38年(1963年)8月である。これにより、はまぐみ学園に併設された学校部門が新潟養護のはまぐみ分校となった。地域の障害児の何人かはスクールバスで通ってたが、はまぐみ入園の俺などは39年6月の寄宿舎完成まで待たねばならない。
そして6月10日、はまぐみから転校、その6日後に新潟地震に遭ったのである。その日が火曜日だったことも明確に記憶に刻まれている。
右画像はその時のニュース写真である。しかもこれは、あるサイトに原爆写真といっしょに「キノコ雲」として出ていた。
寸断された水道管の破裂が噴水となった広いグラウンド、その片隅のたしか芋畑わきに命からがら避難した子どもや職員ら、それら人々が見上げる空に、このキノコ雲が立ちのぼった光景を想像するがよい。真っ黒な油煙が夏の太陽をすっぽりと覆い隠し、真昼なのに夕方のような暗さのなかで、寒さと恐怖にガタガタ震えていた人々の姿を想像するがよい。
当時、先生方が、どこからか借りてきた小型トラックの荷台でピストン輸送されて、近くの県立新潟盲学校に避難したのだった。物凄い太い柱に恵まれた校舎は、ヒビなんかはいっていたのかなかったのかは忘れたが、とにもかくにも頼もしい思いだった。
ただ、夜になると昭石爆発火災の火炎が夜空を焦がし、外が真っ赤だったのを憶えている。その日の夕刊のバカでかい写真をながめながら、前途に不安を抱くばかりだった。
●関連リンク−1●●
小野寺 慶治 著『新潟地震に伴う 昭和石油製油所火災戦闘記(1)・(2)』
昭石火災が鎮火したのは7月1日であると、いまネットを見るといくつもそう書かれている。「2週間燃えつづけた」という事実は当時の報道でも知ったが、その中身も「なすすべもなく燃えるにまかせた2週間」という認識だったが、まさかかくのごとき消防隊員の決死の消火活動があったとは、いまに至るまでその詳細を知らなかった。
しかも、この時も東京消防庁である。あの東日本「3・11」にともなう福島原発火災でも大活躍した東京消防庁である。
そういえば、ヘリコプターによる空からの放水で苦労する報道——あの時の苦闘に「懐かしさ」すら感じたのは、思えば新潟地震での記憶からだったか。上記リンクの、火と熱との戦いを読むにつけ、2年まえ3月の記憶と猛烈に見事にダブってしかたなかった。
で、疎開したその後は……
一部、過去記事を引用する。
[つぎは「デュエット歌謡」ということだが、本命は『夕陽の丘』だった。
昭和39年6月16日午後、新潟地震で全半壊した養護学校の寄宿舎に住めず、車で30分くらいの県立盲学校寄宿舎に居候していた時期があった。その時、養護学校に運んでくれたのが新潟交通のバスだったが、その思い出と『夕陽の丘』がなんで重なるんだろうと、ずっと不思議だった。こんどしみじみ歌詞を聴いて分かった。
夕陽の丘の ふもとゆく バスの車掌の えりぼくろ……
「そうか! バスの車掌か!」と膝を打った(笑)。
車体の色から銀バスといわれた、ほんらい路線バスに使用するバスの通学、下校の行き帰り、かならず女の車掌さんが付いてくれて、別に歌なんか歌うわけではなかったが、楽しみだった。そして、毎回、どこに席を占めるかが勝負だった(笑)。
しかし、映画なんか連れていってもらったことないのに、『夕陽の丘』なんかどこから知ったんだろう。バスの窓から映画の看板でも見てたんだろう。
動画に出てくるのが主役の裕ちゃんこと石原裕次郎だが、カッコいいね。ああ、映画スターとはいいもんだ、さすが憧れの対象。スターとは良くいったもんだ、とつくづく思う](『2012 ホンマの紅白歌合戦』より)。
●関連リンク−2 歌・
『夕陽の丘』 (石原裕次郎&浅丘ルリ子)