マフィア映画『シシリーの黒い霧』(1961年)は、マフィアの原産国イタリアが生んだ社会派大作だが、監督はこれも社会派の名に恥じないフランチェスコ・ロージである。
俺がほかに見たこの監督の作品では、『黒い砂漠』『コーザ・ノストラ』『カルメン』『予告された殺人の記録』とあるが、いずれも硬派の作品ばかりで、漫然と見ていたら筋が読めない難解さも併せ持つ。
本作も時系列にあらず、過去にもどり、現在にかえり、再び三たび過去にもどるという風に変幻自在の筋運びだ。ほろ酔い気分で見られる映画ではなかった。
昔はこういう映画がよくあった。
それでお客がよく見てくれた。客の質が熱かった、ということではなく、映画に自信があったのだ。いい映画を作れば客が熱心に見てくれる時代だったということだ。
しかし、ネットの評判は総じて厳しい。作り方が下手で、下手ゆえの難解さだと。
しかし、俺は案外に楽しめた。
分かりにくいことは楽しさを阻害しない。そもそも人生は分かりにくいものだ。それが赤の他人の人生ならなおのことだ。だから、冒頭死体で発見されるサルヴァトーレがどんな人間で、どんな裏があるかなど、分からないなら分からないなりに、かえって想像力をふくらませて想定外の効果がある。
リピート見要素というのは、こういう作品にこそ見いだされるべきだろう。
ひとりの男の死の真実を追究する過程であらわされるシチリア島に生きる人々のたたずまい、そこにおけるマフィアの存在性、政治と暴力の相関性、それらが白黒映画ゆえのザラっぽさ、リアル感で締めつけられる。
この映画でストーリーを語るのは愚である。
じかに見る以外、この感興は説明がつかない。
さて、明日は「アイルランド独立の父」と呼ばれる男の波瀾万丈の半生を描く『マイケル・コリンズ』(1996年、ニール・ジョーダン監督)である。
アイルランド独立戦争を描いた映画としては『麦の穂を揺らす風』(2006年、ケン・ローチ監督)があるが、本作を見てもその悲惨さ、祖国愛をふみにじられることの理不尽さが痛切に伝わる。
こういう映画を見るたび思うのは、日本という国はつくづく恵まれているという思いの反面、いや、それだからこそ大国アメリカの傘の下に安穏と生きてきた民の自立性のなさ、克己心の皆無を思い知らされるのである。
きのう、『カサブランカ』で書くのを忘れたが、酒場でナチが歌う『ラインの守り』が、元レジスタンス、ラズロの機転で『ラ・マルセイエーズ』に転調する感動的場面があるが、あれを見て思うのは日本の国歌だ。俺なんかも、やはり軍歌調の勇ましいのがいいのに、葬式のような『君が代』はなんだといったら右翼に怒られるか。
いやいや、それより近隣アジアの反発が大きいから、やっぱり『君が代』にしとこう(笑)。というわけで、お粗末!(笑)